劇場版レヴュースタァライトに向けて準備をして臨んだ、と思ったら初回理解に失敗した反省文
タイトルの通り。
文にまとめるほどの内容もないが、どんな流れで観に行き何を考えたのかのメモがてら、昔開設だけしてたブログを引っ張り出して反省文として残しておく。
感想文なので考察要素はあまりないけれど、ネタバレ要素はあり。TVシリーズ、劇場版に触れた前提で書いている。
準備
劇場版を薦める声を見かけたので週末見に行くかと決めた後、以下作品を順繰り見た。
ウテナは比較する声を多く見かけたので、いい機会だからと触れた意味合いもある。独特すぎる惹き込まれる世界観、決闘に向けた絶対運命黙示録の妖しいバンク、なるほどと思った。
勢いで劇場版も見て、これと比べられる劇場版スタァライトはどんな作品なのか不安感も出てきてしまったが、ともあれ期待度は高まっていった。
ただ、今思えばここ(ロロロを中断してTVシリーズに移り、見終えたところでのツイート)
での作品初見時の状態をもう少し受け止めておいて、また劇場版ウテナから「何が出てくるかわからないから、ただ楽しむだけでなくきちんと読み解いていこう」という姿勢で見る、という気持ちになっておくべきだったのかもしれない。情熱のレヴューでがっつりスタァライトされたので作品を見進めるの自体に不安は無かったのだけど、すぐさま誇りのレヴューが始まってちょっと待ってくれという気分になってた
— あららと (@pollux152) June 23, 2021
視聴そして反省
初回視聴時は、整理がつかない中でレヴューの奔流に晒されて、凄かったけど何が何やらという状態で終わってしまった。2回目はある程度乗れた気がする。
主な原因は劇場版でのレヴューの立ち位置、性格をちゃんと理解して消化できてなかったために、レヴューの動機とか行っている意味だとかがよくわからなくなったこと。
以下、その辺を自分の理解に落としこんでみる。解釈は的外れかもしれないが、これでひとまずは納得した。
レヴューの立ち位置、あるいは物語とレヴューの関係
TV版の
- ストーリーの骨子だったオーディションという枠組みの中でレヴューが行われるという世界観
- 前後の話も含めた「物語の中のレヴュー」という物語の進め方
に心地よく浸かってた分、劇場版でもそれを期待してしまって「レヴューが駆動する物語」または「TV版に比べ、より舞台の枠組みを拡張して展開していくレヴュー」に対応できなかった。
この辺、TV版とかを見てこういうもんなんだと自分の中に生半可な感覚を持ってたためややこしいことになったような。まるっきり初見のほうがむしろ素直に怒涛のレヴューシーンを楽しめた気もする。
ワイ(ル)ドスクリーンバロック(この用語も初回視聴後調べて知った)というのも、とめどなく激しく展開していくぞと最初からずっと宣言してたんだなと納得した。
レヴューの持つ性格
レヴューが舞台少女の感情の発露(だと思ってる)なのは一貫してると思うけど、TV版と劇場版だとレヴューの持つ性格がだいぶ変わったと思う。
- オーディションに勝ち、他の存在の力(舞台少女のキラめき)を利用して願いを叶えるため舞台に上がるというような超常的な要素が、自らの意志を舞台上で表現しなりたい自分に向かって進むという等身大の舞台少女の話に収まった
- 舞台で打ち負かすべき対象がレヴューの共演相手ではなく自分自身になった(相手に勝利する自分、相手から認められる自分になりたいのなら、打ち負かす対象は共演相手になる)
- 感情と舞台少女としての持てる力をぶつける目的が、運命の舞台のセンターを奪い取るという自分の外に向けたものだったのに対して、劇場版では自分自身を舞台少女として生き返らせる(再生産する)という内に向けたものになった
こうして、レヴューを取り巻く枠組みとその性質の両方が変わったことで、TV版のストーリーに浸って漫然と観てしまっていた自分の頭は置いてきぼりになってしまった。
もう少しだけ言い訳をすると、TV版における舞台少女心得のような、星摘みのレヴューのような、感傷たっぷりのパートも期待しながら最初観ていた。劇場版の主題的にはそういう話ではないため、そういった要素は過去華恋とか決起集会でのB組で描かれたということなのだろうか。
初回視聴後は、感受性も読解力も全て死んでしまったんじゃないかと凹んだ。
後から思えば自分の中で一旦定まった作品理解にあぐらをかいていた、劇中で言われている「死」の状態にあったのかもしれないと思う。そしてそれを吹き飛ばす勢いに晒されても受け止められず、再生に至れなかった。
2度目を観終えて、反省しながらも凄くさっぱりした。パンフが届いたら物語内容について考えたことも交えて、考察してみるのも楽しそうに思う。
クロちゃんの美しい場面のポスターかタペストリーください。